【120周年記念】120周年記念授業「岡山工業高校の歴史」

岡山工業高校は今年創立120周年になります。このことを記念して2年生を対象に、本校の戦前の学校生活についての勉強をしました。歴史は単なる過去の出来事を覚える暗記科目などではなく、自分が困ったときに助けてくれたり、勇気づけてくれたり、心を鼓舞してくれる先哲たちの物語です。この歴史のすばらしさとともに、岡工の歴史のすばらしを伝えるために授業をおこないました。

まず、県下初の工業学校がどのような経緯で誕生したのか、そして、創成期の生徒たちはどのような情熱を持って勉強していたのかなどを紹介しました。開校式のアーチは「機械科」「土木科」「染織科」のみんなで作成しました。このアーチは非常に高く作られていて、あえて高さを出しており、これは当時の生徒たちのこれからおこなう「ものづくりへの高み」を表現しているのではないかと伝えました。

次に、1944年に本校土木科を卒業された田淵和雄さんに、当時の学校生活について講演をしていただきました。岡山工業学校は当時岡山市南方にありました。自宅の牛窓から自転車で片道2時間かけて通学されていました。戦時中でガソリン車は使用の規制があり、木炭ガス車が使われていました。その木炭ガス車の後ろにつかまって自転車で坂道を登っていました。また、電池も貴重だったので無灯火で自転車をこいでいて、警察官に怒られることがありました。

田淵さんは土木科の授業を一生懸命に勉強されたそうです。「特に測量の実習が一番好きで、後楽園などに行き実習をおこないました。当時は土木科の授業と平行して、軍事訓練の授業も多くありました。歩兵銃を担いで学校から吉備津神社まで行進をする訓練があり、3分走り3分歩くことを繰り返す行進はとてもしんどくて、軍事訓練を担当している軍人の先生に、”こらえてくれ”と頼みこむ生徒たちがいました。高校時代は、”どうせみんな戦争に行くんだ。日本が負けるとは思っていなかったし、皆、行かなきゃあ”という気持ちでした。また、戦争はするべきではないけれど、戦争をする必要はあると思っていました。日本は勝てると思っていました。負けるとは思ってもいませんでした。当時は、戦争をすることを賛成していました。」と伝えてくれました。

卒業後は大林組に入社し、香川県の詫間航空隊での測量、1946年の昭和南海地震で崩落した四万十川の鉄橋修復など全国各地でお仕事をされました。そして、その土地その土地で大事な友人ができたそうです。  

田淵さんが高校生に伝えしたいこととして、海軍兵学校の80年前の教えである「海軍士官である前に紳士であれ」と言われました。「これは、社会に出たときに、社会生活で大切にして頂きたいマナーが書いてあります。80年前のことですが、今にも通じることばかりです。最後に、健康第一です。そして、一生、付き合える友人をつくって、大切にして下さい。」と言われ、この言葉は聞いている生徒たちに強く響きました。  

生徒の振り返りでは、「戦争は良くないが、戦争をしないと生きていけない時代であったことを理解することで、僕たちが戦争をしないといけない時代にならないように未来に伝え、平和を大切にしていきたいと思った。」「岡工は空襲で焼けてしまったけど、その時々の先生や生徒たちが、岡工の歴史を繋げていきたいという気持ちがあったから今の岡工がある。」「同じ土木科であり、昔からレベルやトランシットが授業で使われていて、測量や土木の歴史を感じるとともに、歴史を受け継ぐようこれからもしっかりと勉学に励んでいきたい」「戦争中は専門科目の勉強もなかなかできなくなり、軍事教練が多かったそうです。しかし、教練にきた軍人にあだ名をつけたり、帰りに自転車を無灯火で走って警察官の人に怒られたり学生らしい話も多くあって聞いていて楽しかったです。」と多くの生徒が今回の勉強を通して、「身近な歴史をどのように自分自身で活用できるか」を考えることができたと思います。

授業後にも田淵さんは残っていただき、土木科の後輩達に激励をしてくださいました。また岡山空襲直後、働いていた高知県から帰省したお話を特別にしていただき、当時の町の混乱ぶりを教えてくださいました。

戦前の岡工の歴史は、1945年6月29日におきた岡山空襲で資料の多くがなくなってしまいましたが、戦前の卒業アルバムを寄付してくれる人や、戦前の学校生活を記録した回顧録を作ってくれた方々がいたおかげで、この授業をおこなうことができると伝えました。「岡工の歴史を紡いでいきたい」と考えた多くの人によって授業ができていることを伝え、「人は一人では力不足であるが、みんなで協力すれば、できないこともできるようになる」と岡工の歴史から私が学んだことを伝えました。